紙でデータ収集を運用している状況を考えてみましょう。紙のワークシートあるいは症例報告書に情報を書き込んでいきます。ある時点で、誰かがデータを修正します。事前に運用で取り決められたとおりに、修正の対象となる(間違った)データに二重線を引き、すぐ近くに(正しい)データを書き込みます。そして余白に修正日、「誤記訂正」等の修正理由をを添えて、押印ないし署名をします。印影や署名は、事前に作成しておいた記名・印影・署名一覧を確認することで、間違いなく一人の人物と紐付けることが出来ます。紙ペラ自体には仕掛けも何もありませんが、書き方の約束事をしっかりと決めておくこと、約束事が守られていることを確認する約束事をしっかりと決めておくことで、運用として成り立ちます…それ自体では何も出来ない紙ペラが、工夫次第で、「あのとき、何が起きていたのか」が再現できる素晴らしいものに変わります。
電子化されているシステムだと、世間の目はとたんに厳しくなります。紙媒体では自由に出来ていたことも、電子媒体では自由に出来てしまうとどこか気持ち悪いんですね。例えば、紙媒体では押印ないし署名は誰にでもできます。責任医師のみが押印・署名すべき箇所に、洗脳でもしない限り、他者が押印してしまう行為自体を未然に防ぐ手立てはありません。ですが、電子媒体で(電子)署名をする場合は、署名の権限がない人が、署名できたらおかしいと思ってしまいます。同様に、原資料を片手に、症例報告書(紙)を確認するモニターさんが、症例報告書の内容を書き換えてしまわないための手段を講じることは困難です。施設スタッフがモニターさんに立ち会って監視することは可能だとは思われますが、大半の場合はモニターさんは部屋に閉じこもって黙々と確認作業を行うでしょう。EDC等がそうである様に、CRFが電子媒体の場合は、モニターさんが画面上の項目を書き換えられたらびっくりすると思います。よくよく考えたら不思議なものです…利用者側の商品に対する「出来そう」という期待から、「出来たら良いな」がいつしか「出来て当然」になってしまうのは、ライフサイエンス業界のみならず、さらにはIT業界のみならず、広く見られる現象だと思われます。
紙だと何でもありだったのに、電子媒体になるとあれこれ難癖をつける。これって理不尽なのだろうか。そうでもないのかも知れません。大事な被験者・患者のデータを扱っているから当然だ、等の価値観の話は措いても、です。
ジオラマ、フィギュア、(プラ)モデル等々には、造形の細かさを表すために、しばしば「情報量」という用語が使われます。情報量…いまいちピンと来ないかも知れませんが、例えばバイクのモデルの場合、タイヤの溝とすり減り具合をどの程度まで、どの様に再現できているかで、どういったバイカーが乗っていたのか、色々想像ができます。駅舎のモデルでは、木材のテキスチャを如何に再現できているかで、質感が変わってきます。まさしく、「これはどういったものなのか」を示す「情報」ということなのでしょう。
電子化が当たり前になってきた昨今では忘れられがちなのですが、紙ペラに手書きで書き込まれたデータには、造形物と同じように、凄まじい情報量がギュッと詰まっています。一度書き込んでしまったものは、電子媒体と違って如何なる手段をもってしても、無かったことには出来ません。様式の印刷に使用された紙自体も、全てのプリンターで同じ紙が使われているわけではないので、出所に関する重要な情報の一つ。また、ボールペン等で書き込みをするのと同時に、書き込みに使用したボールペンや、書き込みをしている本人の「筆跡」という情報が紙に残されていきます。権利の無い者が勝手に修正をしてしまった場合でも、理論上は筆跡鑑定で不正が判明できるかも知れません。書類の作成にかかわった方々の指紋も、コンピューターでいうところのアクセスログの様に、用紙いっぱいにベタベタと証跡を残します。
もちろん、紙ペラにこういった情報を簡単に可視化できる手段がありません(業界用語で言う見読性に乏しい)ので、いくら情報量が多くても(考え方によっては情報量が多すぎるから?)使い勝手が悪いです。ですが、見読性が最悪な紙ペラでも、証跡情報は当たり前の様についてきます。やりたい放題の電子媒体では、あえて付けないといけないものが多いです。紙を電子に置き換えるにあたり、紙で自然と出来ていたことは電子でも当然出来ていなければいけない、という風に考えることも出来ます。そこをクリアーしてはじめて、電子化したことが「良かった」と言えるでしょう。紙と電子が一長一短、トレードオフの関係にあっては意味が無いですからね…
日々の業務のログを未だに紙のノートで取っているものとして断言したいですが、紙ペラも捨てたものでは無いです。当然、差し替えという野暮なことをやらないことが大前提ではありますが…

書き手本人にしかわからないが、そのときの感情までしっかり保存
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